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お天道様、今日も苦しみを楽しみに変えながら十三ヶ条を達成します
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1300年続いた理由
城崎温泉がこれほど長く続いた主な要因は、以下の3つに集約されます。信仰と文化を基盤とした地域の一体感: 開湯伝説にあるように、温泉寺を開創した道智上人による信仰が、地域の人々の精神的な支えとなりました。この信仰が、温泉を単なる湯治場ではなく、「まち全体が一つの大きな宿」として捉える、独特の文化や共同体意識を育みました。旅館は宿泊の場であり、温泉街全体がお客様をもてなすというこの考え方は、現代の「外湯めぐり」文化にも受け継がれています。
文学との結びつきによるブランド化: 大正時代に志賀直哉が『城の崎にて』を執筆したことで、城崎温泉は文学の地として全国的な知名度を獲得しました。これにより、湯治目的だけでなく、情緒ある温泉街の風情や文学的な雰囲気を楽しむ観光客が増え、温泉地の価値が向上しました。
「不易流行」の精神: 伝統的な価値観を守りつつ、新しいものを取り入れる柔軟性が、変化の激しい時代を乗り切る鍵となりました。
乗り越えた困難は北但馬地震だけではない
城崎温泉が経験した困難は、大正14年(1925年)の北但馬地震だけではありません。他にも以下のような危機を乗り越えてきました。
- 度重なる水害: 温泉街の中心を流れる大谿川が氾濫し、過去に何度も水害に見舞われました。その度に住民が協力して復旧に努め、街の再建を果たしました。
- 阪神・淡路大震災: 平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災では、城崎温泉も震度5の揺れに見舞われましたが、大きな被害は免れました。しかし、関西圏からの観光客が激減し、一時は経営難に直面しました。
- 時代の変化への対応: 近年の個人旅行志向の高まりや、インバウンド需要の変化にも対応してきました。かつて主流だった「一泊二食付き」から、宿泊と食事を分ける「泊食分離」のスタイルを導入し、多様なニーズに応えることで、新たな顧客層を開拓しました。
「不易流行」の観点
城崎温泉の歴史はまさに「不易流行」を体現しています。
- 不易(変わらない本質):
- 「外湯めぐり」: 温泉街全体を一つの宿と見なし、浴衣と下駄で7つの外湯をめぐるスタイルは、時代を超えて受け継がれています。
- 木造建築の街並み: 北但馬地震後の復興にあたり、あえて木造三階建ての旅館を再建し、昔ながらの風情を保ちました。
- 「城崎温泉旅館協同組合」による協調体制: 旅館同士が過度な競争を避け、地域全体で観光客をもてなすという理念が根付いています。
- 流行(新しさを取り入れること):
- 泊食分離の導入: 現代の多様な旅行スタイルに合わせて、食事を外で楽しむ素泊まりプランを積極的に推進しました。これにより、旅館だけでなく、街中の飲食店も活性化しました。
- ターゲット層の変化: 団体旅行から個人旅行へ、また近年では外国人観光客にも対応したサービス(例: 外国語対応、キャッシュレス決済など)を強化しています。
- 文学イベントの開催: 志賀直哉の縁を大切にしつつ、俳句や短歌コンクールを開催するなど、文学のまちとしての新たな魅力を創出しています。
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