大東亜戦争の真実(皇紀 弐千六百八十五年 令和七年(2025年)九月十二日 金曜日)2

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お天道様、今日も苦しみを楽しみに変えながら十三ヶ条を達成します

日中に精神が弛緩したらもう一度「般若心経」「教育勅語」「大祓詞」を読みます

仕事時間が少し空いた時のために10分間でできる仕事をいくつか設定しておく

108歳の誕生まであと 14,964日:絶対にこの日まで命を閉じない!

 

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さあまたも 誰かを邪魔に するために 支那の脅威に 力貸す人

 へそが茶を沸かすという言葉がありますが。まさにブラックメディアの報道は総裁候補に小泉(名前も忘れてしまいました)を挙げていることなどそうです。彼には政策立案能力も政策遂行能力もありません。これまでやったことといえば官僚の規制仕事の「ポリ袋の有料化」だけです。あれも何が目的かが全くわかりません。あんなアホが総理になったらそれこそ我が国ではなく海外の国々に笑われます。支那共産党は飛び上がって喜ぶでしょう。

閑話休題。平成二十二年(2010)年十月五日の記事を宝徳が編集改編しています。

 東京裁判が成り立たなくなるためGHQ総司令官 ダグラス・マッカーサーが闇に葬った「東條英機宣誓供述書」を解説し、大東亜戦争が侵略戦争などではなかったという、至極当たり前のことを証明しています。

 「日ソ中立条約と松岡外相の渡欧」です。「東條英機宣誓供述書」の二十~二十五に記述されています。

 前回は、この案件について、日本が進めようとしていた事柄と、東京裁判で検事が提出した資料がまったく食い違っていたことを説明しました。

 検察側の証言がなぜ違うか。その理由は・・・。

 松岡外相が渡欧したときは、当時日本として考えていたこととかなり異なり、ドイツとソ連の間はかなり緊張していて、ソ連と三国と同盟を結ぶなどということは不可能となったのです。また、ドイツは日本とソ連が中立条約を結ぶことを歓迎しない状態となりました。

 したがって、ドイツが斡旋するということはなくなりました。


 結局、四月十三日、松岡外相の帰途の間に中立条約は締結しましたが、その他にこの松岡外相の渡欧より生じた実質的の外交上の利益は何もありませんでした。松岡外相の渡欧は独伊に対してのまったく儀礼的なものであったことから何も政治的な効果もありませんでした。


 統帥に関することは初めから松岡外相に禁じたことであり、シンガポール攻撃その他に関する事項は何もなかったこと。


 東京裁判の検察が言うように、1941(昭和十六年)二月上旬に日独の間に軍事的協議をしたという事実はないこと。


 この三つが、検察の出した資料にはあって、嘘の内容であることなのです。東京裁判はリンチです。反論の予知なき正義を振りかざして権利を行使するという人間として最も浅ましい行為です。


 それをやられたにすぎません。この事実だけを見ても、東京裁判がいかにくだらないことかがわかります。それを受け入れている今の日本は、一体何なのでしょうか?


 日ソ中立条約は、これらのことから、締結はしたものの、その後の日本の国策には大きな影響を持ちませんでした。また、日本の南方政策とは何の関係もありませんでした。この中立条約があるために、日本のソ連に備えた北方の兵備を軽くする効果もなかったのです。


 にもかかわらず、日本は終始この中立条約の条項を厳重に遵守し、その後の内閣もこの中立条約を守るように引きつがれ、独伊の要求があってもソ連に対して事を構えることは一度もしませんでした。


 結果はどうだったでしょうか。ソ連は一方的に、中立条約有効期間中でありながら、日本の領土を獲得する条件をもって攻め入りました。終戦も92にしています。なぜなら、自分たちが攻め込んだことを正当化するためです。それを、私の大学のクラブの後輩、外務副大臣 武正公一は受け入れてしまったのです。本当に情けない後輩です。


 さあ、次回から、日米交渉に入ります。日本が侵略国家ではなかったことがわかってきましたか?

日本人は早く目を覚ましましょう

 

みなさんは、ソ連が樺太に振興してきたときに、真岡の逓信局の女性たちが、最後の最後まで状況を打電して、「これが最後の電信です」と言って絶命した事件をご存知ですか?靖国神社の遊就館に行って見てください。涙が溢れてとまりません。日本はつらい国なのです。大国に挟まれう、資源もなく・・・。だから、人間を鍛えるしかない。なのに、戦後の過った教育が・・・。


すぐそこまで 敵が攻め入る その中で 最後の最後に 別れを告げる

乙女でも 敗戦前の 我が国は 命をかけて 敵と戦ふ

真岡での 乙女の命を 思ふとき 頭を下げて 涙あふるる

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このページは、宝徳 健が2025年9月12日 00:29に書いたブログ記事です。

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