平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が現在10,459通目です
お天道様、今日も苦しみを楽しみに変えながら十三ヶ条を達成します
日中に精神が弛緩したらもう一度「般若心経」「教育勅語」「大祓詞」を読みます
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百八歳の誕生日に命を閉じるまであと14,973日です
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(原文では)
石作(いしつくり)の皇子(みこ)には、「仏の御石の鉢(はち)といふ物あり。それを取りて賜(たま)へ」といふ
(解説)
でしたね。伎天は、石作皇子(いしづくりのかみのみこ)に「仏の御石の鉢をとって来て」と頼みました。つまり「燕の持つ子安貝をもってきてください」と頼んだのです。
彼は、なんと藤原不比等がモデルであったということが江戸時代の研究で明らかにされています。斉明天皇5年(659年)、「中臣鎌足」(なかとみのかまたり)の息子として誕生。 藤原の姓は、父が死の直前に朝廷より賜ったもので、以後、藤原不比等もこの姓を名乗りました。藤原不比等は、大宝律令・養老律令の編纂に参画・主宰し、平城京遷都を主導するなど、律令国家の基礎を確立した奈良時代の政治家です。
娘を聖武天皇の皇后(光明皇后)とするなど皇室との姻戚関係を深め、子孫が藤原四家を興し、明治維新まで続く藤原氏の繁栄の礎を築きました。燕の子安貝とは:これは燕が雛を産む際に現れるとされた伝説の貝で、安産のお守りとしても使われていました。実際には、海にいるタカラガイ科の巻貝が「子安貝」と呼ばれます。石作皇子は、無理してそれを取ろうとして崖から落ちて死んでしまったという説がありますが、不比等は最後まで生きていますものね😝。
この逸話は、燕が産むとされる伝説の「子安貝」を、実際に燕の巣から取ろうとした石上中納言の愚かさと、その無理な行動による悲劇的な結末を封したものでしょう。
伎天「まあ、燕の子安貝が本当の取れるとは思わなかったけど、まさか、それを取ろうとして亡くなるなんて。お悔やみを申し上げるけど、無謀だわ。こんなバカみたいなことに命をかけるなんて・・・。それなら、そんなことはできない。私は降りると言ってくれたら好きになったかもね」
次回は、くらもちの皇子です。
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