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一つ忘れていました、伊勢物語に入る前に、主人公と思しき在原業平がどういう人だったのかということを書きますね。結構、良い男で、ちょっと斜に構え、プレイボーイで歌人です。こういう人は好きですね。
「昔、男ありけり」から始める伊勢物語は明日からにします。
家柄と生涯
 在原業平は、天長二年(825年)に平城(へいぜい)天皇の皇子である阿保(あぼ)親王の五男として生まれました。皇族の血を引く非常に高貴な身分でしたが、祖父である平城上皇が起こした「薬子(くすこ)の変」に父が連座したため、臣籍降下(皇族から姓を与えられて臣下になること)し、「在原」の姓を賜りました。
 この家柄のため、彼は華やかな才能に恵まれながらも、官位は最高で従四位上、右近衛権中将にとどまり、当時の権力の中枢を担うことはありませんでした。しかし、この境遇が彼の自由な生き方や、放蕩(ほうとう)で風流な人物像を形作ったとも言われています。彼の別名である「在五中将」(ありごのちゅうじょう)は、在原氏の五男で権中将であったことに由来します。
※薬子の変:薬子の変(くすこのへん)は、平安時代初期に起こった事件。 810年(大同5年)に故桓武天皇皇子である平城上皇と嵯峨天皇が対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。蘇我天皇の寵愛を受けていた藤原薬子とその兄である藤原仲成がそそのかしたためだとされています。 そのため薬子の変と言う名が付けられたとも言われています。
「色好み」の伝説
 『日本三代実録』には、彼の人物評として「体貌閑麗(たいぼうかんれい)、放縦不拘(ほうしょうふこう)」と記されています。これは、「容姿が美しく、自由奔放で世間の慣習にこだわらない」という意味で、当時からその魅力的な人柄が知られていたことがわかります。
『伊勢物語』は、こうした彼の人物像を元に作られた歌物語です。特定の主人公を明記せず、「昔、男ありけり」という書き出しで始まる各段に、在原業平と思われる人物の様々な恋や旅のエピソードが描かれています。特に、藤原氏の権力者、藤原高子(ふじわらのたかいこ)との禁断の恋の逸話は有名です。
代表的な和歌
六歌仙でもある彼の詠んだ和歌は『古今和歌集』などに多く収められています。紀貫之による『古今和歌集』の序文では、彼の歌について「心余りて言葉たらず、しぼめる花の色なくて匂い残れるがごとし」(情が豊かすぎて言葉に収まりきらない。しぼんだ花に色はないが、香りが残っているようなものだ)と評されており、その奥深い情熱が感じられるとされています。
百人一首にも選ばれた有名な歌:
- ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは
- (神秘的な神代の時代でさえ、聞いたことがない。竜田川が、一面に紅葉で、美しい絞り染めのように水を染めているとは。)
- 世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
- (もしこの世にまったく桜がなかったら、春を思う心はどんなにのどかだろう。花が散るのを惜しんだり、開花を待ち焦がれたりすることもないのに。)
在原業平は、生涯を通じて日本の文化に大きな影響を与え続け、現在でも「和歌の才に長けた美男」として、多くの人々に愛される存在です。
※六歌仙:平安初期の六人の和歌の名人。在原業平(ありわらのなりひら)・僧正遍昭(へんじょう)・喜撰(きせん)法師・大伴黒主(おおとものくろぬし)・文屋康秀(ふんやのやすひで)・小野小町。
 
 
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