超訳 昔、男ありけり:かへる浪(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)九月二十三日 火曜日)5

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 伊勢物語は昨日の関守の後に、最初に書いた芥川となります。今日から、第五段「かへる浪」です。まず、原文から。伊勢物語は各段が短いし、歌もあるから読みやすいでしょ? どの歌も素晴らしいですね。


むかし、男ありけり。京にありわびてあづまにいきけるに、伊勢、尾張のあはひの海づらをゆくに、浪のいと白くたつを見て、

いとどしく 過ぎゆく方の 恋しきに うらやましくも かへる浪かな

となむよめりける。

(宝徳超訳)
 伊勢物語は、第七段から第十五段までが「東下り」の話です。つまり、京の都を離れて業平は関東方面に行っています。でもいいなあ。波を見るだけで、それを今日に帰る波に見立てて歌を詠む。私にはまだできないなあ。もっと情緒を磨かないと。でも、これは業平がただの物見遊山のために東国に来ているのではないです。

 業平の祖父は桓武天皇の第一皇子平城上皇です。平安京遷都後十六年目の810年、すでに弟の嵯峨天皇が即位していましたが、平城上皇は臣下の藤原仲成・薬子らと共に、ふたたび帝位に返り咲き、都を平安京から平城京へ戻すことを目論み、策動します。810年の薬子の変です。歴史で習いましたよね。

 この目論見はすぐに嵯峨天皇側に察知されます。嵯峨天皇はすぐさま将軍坂上田村麻呂をもって諸国の関所を封鎖。平城上皇の身柄をおさえます。叛乱の首謀者たる藤原仲成は射殺され、妹の薬子は毒をあおって自殺。平城上皇は奈良で出家させられました。そして平城上皇第一皇子・阿保親王は大宰府に流されます。

 十四年後の824年、平城上皇が崩御したのに伴い、阿保親王は罪許されて大宰府から平安京に戻されます。その翌年に生まれたのが業平です。皇族でありながら、罪人の子孫という後ろめたい立場があったせいか、父阿保親王は息子たちを臣籍降下させ、「在原」の姓をさずかりました。

 その余波がまだ残った東下りです。おそらく、まだ燻っていたのでしょう。

    いとどしく 過ぎゆく方の 恋しきに うらやましくも かへる浪かな

 帰るに帰れない今日を偲んでの歌です。学校でただ「なくよしくしく平安京」としか習わなかった私たちには伺い知れぬことです。

                太古から 皇室求めた しらすとは 哀しい歴史を 積み上げた跡(拙首)

 この色々な人の哀しい思いで実現されてきた今の国体「しらす」なのですね。先人達には感謝しかありません。

  ちなみに貴種流離譚という言葉があります。です。高貴な人がわけあって都や郷里を追われ、辺境の地をさまようという話の型です。業平もこの時はそうだったのかもしれません。

 日本武尊も、父の景行天皇に何度も地方征伐に向かわされます。東国に行くとき、途中で今の静岡県を通りました。すると地元の有力者が日本武尊を焼き払おうと野に火をつけます。ヤマトタケル一行は一面火の海に囲まれます。そのとき、伊勢神宮の祭主をしていて子供の時から可愛がってくれた叔母の倭姫(やまとひめ:天照大御神を伊勢の地に導いた人)が一本の刀をくれます。三種の神器の一つの天叢雲の剣(あめのむらくものつるぎ)です。その剣で火まみれの野をヤマトタケルは振り払います。火は見事に消えました。なので、この地の名前を「焼津」と言います。この時から刀の名前が草彅の剣(くさなぎのつるぎ)となりました。

 また、相模灘を通るときに、大嵐にあって日本武尊一行が載っている船が沈みそうになりました。同乗していた奥様の弟橘媛(おとたちばなひめ)が、「殿にはこれまでどれだけの恩があるかも計り知れません。今度は私がお返しする番です」相模灘に身を投げます。すると嵐が治りました。でも、日本武尊は悲しくて仕方がありません。弟橘媛がまさに身を投げるときに振り返ってニコッと笑って詠んだ歌です。

さねかし 相模(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 火中(ほのか)に立ちて 問いひし君はも

 焼津の火の海の時に助けてくれたことを詠んでいます。さねかしとは、あなたのそばにいられてよかったという意味です。なのでここが相模国になりました。

 日本武尊は弟橘媛(おとたちばなひめ)を偲んで足柄山で喪に服しました。足柄山の上から「吾妻よ」と歌ったことが「東」の語源とされます(この歌は遺っていませんが)。

 今の千葉のある地につきました。日本武尊がふと海を観ると着物の袖が流れてきます。弟橘媛の袖です。

君さらず 袖しが浦に 立つ波の その面影を見るぞ悲しき

と日本武尊は歌います。なので、この地の名前が「袖ヶ浦」になります。

 そして、目的地に来ました。その地の名前を和歌の君さらず」からとって木更津としました。

 なんで和歌はこんなに綺麗なんだ。こんな太古の歌を読むだけで、なんで、その情景が目の前に現れてくるんだろう。日本人に生まれてよかったと今更ながらに思います。

目の前に 太古の一期(いちご)が よみがへる 歌ひとつだけ 詠むそのたびに


(現代語訳)https://ise.kaisetsuvoice.com/007.htmlより

昔、男がいた。京に住み飽きて東国に行ったのだが、伊勢・尾張の間の海岸を行く時に、波がたいそう白く立っているのを見て、

東への旅をして京から離れれば離れるほど、京が恋しくなってくるのに、うらやましくも京に返る浪よ。

と、詠んだのだった。


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このページは、宝徳 健が2025年9月23日 05:20に書いたブログ記事です。

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