平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が現在10,483通目です
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108歳の誕生まであと19,469日:絶対にこの日まで命を閉じない!
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キャッシュフローマネジメントはリスクマネジメントのひとつです。
永遠企業(旧千年企業)の凄さをはこれで6社と1地域で観てきました。他の2社を除きどの会社も得心のいく永年企業でした。永遠企業とは、
❶真剣に自分たちは、たった千年ではなく永遠に続くということ信じ抜いている
❷核となる「家」がある(上場していない、主語を他人にしない)
❸核となる「家」または「地域」が常に永遠に関してのリーダーシップを保持している
❹他者の支配を受けていない(行政・金融機関を含む)
❺不易流行が恐ろしく実践されている(流行を安易に行わず不易と一つの道を創る)
❻皇室の在り方が背骨にある
❼外部要因の危機を何度も乗り越えている
❽内部要因の破綻を一度は味わっている
(EPV8:Eternal Principle Value8:8つの不朽の原則価値と呼びます。千年を不朽に変えました。こちらの方がしっくりします。)
つまり、永遠企業とは世界で唯一神話の世界から歴史が連続した人間社会の奇跡の国 我國日本のあり方なんです。皇室のあり方なんです。陛下の生き様なんです。
歴史と神事:紫野 今宮神社との切っても切れない縁
一文字屋和輔の歴史を語る上で、紫野 今宮神社の存在は不可分です。創業の契機そのものが、神社の創建と深く結びついています。紫野とは、紫草(むらさき)という植物の染料を採取するために作られた土地のことです。紫草の栽培と「標野」:紫草を栽培する野は一般の立ち入りが禁止され、「標(しめ)を張った野」、すなわち「標野(しめの)」と呼ばれました。
余談です。この今宮神社とは関係はありませんが、私が最初に覚えた和歌は、
あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき野守はみずや 君が袖ふる
紫草(むらさきの)にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我れ恋ひめやも
の二首でした。額田王と大海人皇子(のちの天武天皇)の歌です。かつて夫婦関係とも言える額田王と大海人皇子ですが、天智天皇に額田王を取られてしまいます。
天智天皇主催の標野での催し事で、ある紫野で二人は顔を合わせます。その時、額田王が歌った歌が前者です。「美しい紫色を染め出す紫草の野を行き、立ち位置入りを禁じられた野なのに、野の番人が見ているではありませんか。あなたがしきりに私の袖を振るのを」と。天皇の女性を取るという行為にもつながりますので、これは大変なことです。大海人皇子が歌を返します(これを返歌と言います)。その歌が後者です。「美しい紫草のように匂い立つあなたが憎いのなら、もう人妻なのになんで私が恋をするだろうか」という意味です。二人はまだ思い人だったのです。初めて和歌に触れた私は、「禁断の恋なのに、なんて綺麗な和歌を二人は詠むんだろう」と思いました。学生の頃だったと記憶しています。
どうでもいいですね笑。その紫花が今宮神社でも採れていたのです。
創業:厄除けの門前菓子としての起源
今宮神社の創建は正暦5年(994年)とされていて、その数年後、平安京で疫病が流行した際に疫神を鎮めるために神事が行われました。一文字屋和輔の初代当主である一文字和輔は、この悪疫退散の神事に際し、神前におかちん(勝餅・かちもち)を供えたのが店の始まりとされています。神に供えられた餅は、疫病除けの餅「あぶり餅」として参拝者にふるまわれました。
あぶり餅は、もともと硬くなった神饌(しんせん、神様へのお供え物)を細かくちぎり、きな粉をまぶして炭火で炙り、柔らかくして神様からの「お下がり」として人々がいただくことで無病息災のご利益を得るという、信仰に根ざした菓子でした。このように、あぶり餅は単なる菓子ではなく、神と人をつなぐ媒介であり、厄除けの縁起物としての役割を担っています。店の存在意義は、商業的な成功よりも、今宮神社の神事と一体化した文化的・宗教的な奉仕なのです。この精神的な基盤こそが、千年にわたる存続の揺るぎない土台となっていることを私たちは忘れてはなりません。
文献に見る歴史と千利休との関わり
一文字屋和輔の歴史を裏付ける文献は、残念ながら平安時代まで遡るものは残っていません。しかし、約250年前の江戸時代のベストセラーガイドブック『都名所図会』には、すでに店が掲載されており、その当時の様子が今とほとんど変わらない場所で営まれていたことが記されています。さらに、茶の湯を大成した千利休があぶり餅を茶菓子として用いたという逸話が伝えられており、現在も千家御用達となっています。これは、あぶり餅が庶民の厄除け菓子であると同時に、洗練された文化人にも愛される上質な茶菓子としての地位を確立していたことを示しています。
元々、茶道と和菓子は切っても切り離せなく、共に進化してきました、
店名である「一文字屋」は屋号であり、代々の当主は「和輔」を名乗るという家訓が守られています。この屋号と当主名の継承は個人の名声を超えて、家業と家系を永続させるという強い意志の表れである。現在の女将である長谷川奈生氏は25代目にあたり、その血族によって千年の味が守られてきました。
女将さんすみません。勝手に掲載しました。
今でも一文字屋は、紫野 今宮神社の神事の際に、お餅を白蒸しにしたものを御神饌として納める役割を担う家です。今宮祭りの際には、一和が神饌として納めたものをお祓いし、神輿などに祀ってから神輿が出発します。
そして、その御神饌をお下がりとしていただいて、疫病を払う有難いものとして皆で少しずつ分けていただきます。お餅も固くなっているので、小さく割って、きな粉をまぶして焼いて、白味噌をつけてふるまったので、疫病が鎮まったというのがあぶり餅の始まりです。餅もきな粉、白味噌も身体に良いものなので、たとえ少しでも口に入ると、疫病への抵抗力がついたのではないかと思われます。応仁の乱の際にはこのあぶり餅を、一文字屋は、焼け出された庶民に振る舞いました。
だめ、書いていて涙が出てきます。私は、一文字屋和輔が大好きです。なんとも言えない恋心です。私の母校である慶應義塾には中小企業の子女がたくさんいました。学生時代「親の後を継ぐのは人生にレールを敷かれているみたいで嫌だなあ」と思っていました。失礼ですよね。でも、社会人になってすぐに「ああ、経営を承継できるというのはなんて幸せなことなのにそれを否定していた自分は愚かだなあ」と、思いました。
もし、私が経営者の息子として生まれていたら、今なら有無を言わずに後を継ぎます。どんなボロ会社でも笑。ましてや、一文字屋和輔なら、卒倒してしまいそうなぐらいの歓喜で後継します。
だって、永遠の命と生涯を添えられるのです。人間としてこんな素敵なことってないですよね。それも団子一つで永遠です。頭がくらくらします。そして、名前が変わるのです。一文字屋和輔に🤣。
敷島の 大和心を 人問はば あぶり餅にある 一和を示さん
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