修行じじいのつれづれなるままに(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)十一月十四日 金曜日)2

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平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が現在10,768通目です。

    お天道様、今日もまた苦しみながら十三ヶ条を達成します

第七条/第十三条)起点力(気転力)の原則:触媒としての私の存在がみなさんの気転力となり

新たなスタートへの起点力になることを誓います。

日中に精神が弛緩したらもう一度「般若心経」「教育勅語」「大祓詞」を読みます

仕事時間が少し空いた時のために10分間でできる仕事をいくつか設定しておく

眠くなったらストレッチ体操を5分やる

108歳の誕生日まであと14,901日:絶対にこの日まで健康で命を閉じない! 


海軍五省(5/5):不精に亘るなかりしか

怠けたり面倒くさがったりしたことはなかったか

英語版(5/5):The Five Reflections:Have you not been slothful?

経営コンサルタントは成長の触媒であり習慣の鏡である

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ひとつ前の弊社ドメイン(事業領域)のリスクマネジメントです。

キャッシュフローマネジメントはリスクマネジメントの一つです。


 人々を 苦しませるのは 本位制 なぜにみんなが これを褒めるか


<服務の宣誓(自衛隊)>
 私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法および法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもって専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえることを誓います。

<この先一週間のブログ予定>お好きな記事をお読みくださいね。⭕️今日書いた記事

14日(金):「暦注⭕️」「修行じじい⭕️「大東亜戦争」

15日(土):「暦注」「修行じじいIT-BCPDX

16日(日):「暦注」「修行じじい「伊勢物語」

17日(月):「暦注」「修行じじい「ドメイン」

18日(火):「暦注」「修行じじい「伊勢物語」

19日(木):「暦注」「修行じじいIT-BCPDX

20日(水):「暦注」「修行じじい」「伊勢物語」

1.本位制からの脱却
 学校で江戸時代の三大改革を習いました。「享保の改革(徳川吉宗)」「寛政の改革(松平定信)」「天保の改革(水野忠邦)」です。政治改革はともかく、経済政策で成功したのは、田沼意次(彼は政治改革も成功させている)と荻原重秀だけです。今日は、まず、徳川吉宗の享保の改革から。吉宗は、最後は大岡越前の金融緩和政策を受け入れてかつかつ失敗は逃れました。政治改革は上手でしたが、経済改革は、自らが行なった紀州藩の狭い藩の改革を幕府に模倣した田舎侍でした。

 三大改革全部に言えることは、「米本位制」です。江戸幕府が開幕の頃は、米の生産量が全国の経済力を上回っていました。なので、米を中心にした米本位制は十分機能しました。しかしながら平和な世の中になると、民間がどんどん経済が発展する工夫を行いました。そのため経済はどんどん発展し、経済力が全国の米生産量を追い越してしまいました。

 静岡県駿東郡裾野町(現 裾野市)に住んでいる頃、地域に「深良新田」という地区がありました。米本位制であったので幕府はどんどん新田開発を奨励しましたが、それでは追いつかないぐらい経済が発展しました。他に経済の基軸を持たない幕府の財政は窮乏しました。経済規模が基軸を追い抜くとデフレになるからです。米が基軸になるということは金融政策の基軸になるということです。武士も米本位で生計を建てています。なので、時代劇で、武士が内職をするシーンが描かれますが、あんな状態です。幕府からもらえる経済がどんどん発展するのに、米が邪魔して貨幣価値が上がりすぎて、デフレになってしまうのです。インフレには良いインフレと悪いインフレがありますが、デフレには良いインフレはなく全てが経済が停滞する悪いインフレしかありません。これが江戸時代三大改革の招待なのです。今と同じ緊縮財政なのです。

 吉宗は、それにプラスして倹約もやってしまいました。紀州藩の小さな範囲ではそれでもいいです。そして、吉宗自身が倹約をするのもいいです。だけど、民間消費支出が伸びない経済政策が成功するはずがありません。吉宗は民間消費支出の拡大を標榜する尾張藩の宗春を粛清してしまいました。これが吉宗の経済政策の失敗と江戸時代通しての五十五の失敗「米本位制」なのです。つづく
2.文化大革命
   支那大陸で文化大革命が起こりました。日本のメディアは絶賛しました。特に朝日新聞と毎日新聞は。我が家はその時まで定期購入の毎日新聞をやめました。文化大革命についてメディアが報道しないので(報道しない権利)日本人には全く文化大革命について知りません。文化大革命は何をやったのか。

❶動員された若者(紅衛兵): 毛沢東は、知識人や旧体制を批判するよう若者たち紅衛兵=こうえいへい)を熱狂的に動員しました。彼らは毛沢東の権威を背景に、「革命」の名のもとに党幹部や知識人、教師などを激しく糾弾し、暴力を振るい、歴史的文化財を破壊しました。まず、

❷実務派の失脚

 劉少奇は「走資派の頭目」として失脚し、獄中で非業の死を遂げました。  鄧小平も批判の的となり、全ての役職を解かれ、一時的に失脚・地方へ送られました。

 このようにして、毛沢東は文化大革命という社会全体を巻き込む大規模な政治運動を通じて、党や政府の実権を再び掌握し、絶対的な権威を確立しました。この運動は、中国社会に大きな混乱と深い傷跡を残しました。

林彪事件:毛沢東の後継者の失墜(1971年)

おっしゃる通り、林彪(りんぴょう)は最終的に悲劇的な最期を遂げました。

1. 林彪の権勢

文化大革命の初期、林彪は毛沢東の個人崇拝を推し進め、軍を掌握することで毛沢東の最大の支援者となり、その功績で1969年の党大会では党規約に「毛沢東の親密な戦友、後継者」と明記され、名実ともにナンバー2の地位を確立しました。


2. 毛沢東との対立と暗殺計画

しかし、絶大な権力を手に入れた林彪は、次第に毛沢東と対立するようになります。特に、国家主席のポスト再設置や後継者としての権力基盤をめぐって両者の溝は深まりました。

1971年、林彪の息子で空軍幹部であった林立果(りんりつか)らが中心となり、毛沢東の暗殺と権力奪取を企てるクーデター計画「五七一工程紀要」(「五七一」は中国語で「武装蜂起」を意味する武起義に音が近い)を立てたと言われています。


3. 事件と墜落死

このクーデター計画は失敗に終わり、林彪は家族や側近と共に飛行機でソ連へ逃亡を図りました。しかし、1971913日未明、その飛行機がモンゴル領内のウンドゥルハーンという場所で墜落し、林彪を含む搭乗者全員が死亡しました。これを林彪事件(九・一三事件)と呼びます。


4. 文革への影響

林彪が毛沢東の後継者でありながら暗殺を企て、非業の死を遂げた事実は、毛沢東自身が発動した文革の正当性に大きな打撃を与え、運動の終焉(しゅうえん)を予感させる大きな転換点となりました。


 これが共産主義です。文化大革命というただの権力闘争はさらに悲惨なことが次々起こります。つづく

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このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2025年11月14日 00:45に書いたブログ記事です。

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