超訳 昔、男ありけり:すける思ひ(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)十一月十二日 水曜日)3

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平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が現在10,763通目です。

    お天道様、今日もまた苦しみながら十三ヶ条を達成します

第五条/第十三条)生活習慣の定着:みなさんの生活に良い良い習慣が宿るように

私自身がまず良い生活習慣をこの身に宿します。

日中に精神が弛緩したらもう一度「般若心経」「教育勅語」「大祓詞」を読みます

仕事時間が少し空いた時のために10分間でできる仕事をいくつか設定しておく

眠くなったらストレッチ体操を5分やる

108歳の誕生日まであと14,903日:絶対にこの日まで健康で命を閉じない! 


海軍五省(3/5):気力に欠くるなかりしか

物事を成し遂げようとする精神力は十分であったか

英語版(3/5):The Five Reflections:Have you not lacked vigor?

経営コンサルタントは成長の触媒であり習慣の鏡である

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ひとつ前の弊社ドメイン(事業領域)のリスクマネジメントです。

キャッシュフローマネジメントはリスクマネジメントの一つです。


 千年に 浸りて歌を よみいると  千年前が 今蘇る


<服務の宣誓(自衛隊)>
 私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法および法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもって専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえることを誓います。

<この先一週間のブログ予定>お好きな記事をお読みくださいね。⭕️今日書いた記事

12日(水):「暦注⭕️」「修行じじい⭕️」「伊勢物語⭕️」

13日(木):「暦注」「修行じじいIT-BCPDX

14日(金):「暦注」「修行じじい「大東亜戦争」

15日(土):「暦注」「修行じじいIT-BCPDX

16日(日):「暦注」「修行じじい「伊勢物語」

17日(月):「暦注」「修行じじい「ドメイン」

11日(火):「暦注」「修行じじい「伊勢物語」


 世界最古の歌物語「伊勢物語」の第四十段です。まずは、原文から。

むかし、若き男、けしうはあらぬ女を思ひけり。さかしらする親ありて、思ひもぞつくとて、この女をほかへ追ひやらむとす。さこそいへ、まだ追ひやらず。人の子なれば、まだ心いきほひなかりければ、とどむるいきほひなし。女もいやしければ、すまふ力なし。さる間に、思ひはいやまさりにまさる。にはかに、親、この女を追ひうつ。男、血の涙を流せども、とどむるよしなし。率ていでていぬ。男、泣く泣くよめる。

いでていなば たれか別れの かたからむ ありしにまさる 今日は悲しも

とよみて絶え入りにけり。親あわてにけり。なほ思ひてこそいひしか、いとかくしもあらじと思ふに、真実(しんじち)に絶え入りにければ、まどひて願立てり。今日のいりあひばかりに絶え入りて、またの日の戌の時ばかりになむ、からうじていきいでたりける。むかしの若人はさるすける物思ひをなむしける。今のおきな、まさにしなむや。

(宝徳超訳)

業平は若い時に、身分の高くない女と恋仲になってしまいました。親は猛反対です。親「お前、身分いやしき下女との結婚なんて、とんでもない話だ」。平「でも、とても気立てがいいんです」。親「気立てとかそういう問題ではない。人には身分相応というものがある。あんな女、叩き出してやる」。平「ちょ、待ってください」。親「なんだ。親に養われている分際で、さからうのか。自立もしてないすねかじりのクセに。平「それを言われると辛いです」。などと言っているうちに下女に対する思いは勝りに勝りますが、親はとうとう下女に暇を出してしまいます。業平号泣して、つらい思いをしました。息も絶え絶えになりました。親「あああ、こんなことになるとは!」親は息子の気持ちがそこまでだったかとはじめて悟り、さかんに神仏に祈り続けると、次の日の夕方に息子はかろうじて生き返ったという話です。「昔の若者はこんな情熱にまかせた恋をしたんじゃよ。「今の年寄りには、無理だろうなあ」と最後はしみじみ言ってますが、ここで語っているのが、まさに「若き業平」の年老いた姿だとすると、情熱にみちたラブロマンスが描かれた後、老人になった主人公が出てきて「...そんな昔もあったわい」と語っている、映画のラストシーンのようですね。


(現代語訳)

昔、若い男が、悪くない女に懸想していた。それに気をまわす親があって、わが子がそんな女に執着するようなことがあっては事だと、この女をよそへ追いやろうとした。そうはいっても、まだ追いやらずにいた。男は親がかりの身なので、まだ親に反抗してふるまう気骨もなく、女を引きとどめる勢いも無い。女も身分賎しき者なので、一人で暮らしていく生活力が無い。そうこうしている間に、二人の気持ちはいや増しに増す。いきなり、親がこの女を追い出した。男は血の涙を流したが、引きとどめようがない。人が女を連れて家を出て行ってしまった。男は泣く泣く詠んだ。

女が自ら出て行くのなら、誰が別れ難く思うだろうか。誰も思わない。無理に引き離されるから別れ難いのだ。女と一緒にいた昔よりも、今日の悲しさはさらに大きいよ。

と詠んで息も絶え絶えになった。親はあわてた。何といっても、わが子のことを思って女を追い出したのだ。まったく、これほどのことはあるまいと思っていたが、ほんとうにわが子は息も絶え絶えなので、親は困惑してしまい神仏に祈った。

その日の日没ごろ前後不覚に陥り、次の日の午後8時ころようやく生き返った。昔の若者は、このような一途な恋患いをしたのだ。今のご老人が、こんなことするだろうか。


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このページは、宝徳 健が2025年11月12日 02:29に書いたブログ記事です。

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