平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が現在10,762通目です。 お天道様、今日もまた苦しみながら十三ヶ条を達成します
(第五条/第十三条)生活習慣の定着:みなさんの生活に良い良い習慣が宿るように
私自身がまず良い生活習慣をこの身に宿します。
日中に精神が弛緩したらもう一度「般若心経」「教育勅語」「大祓詞」を読みます
仕事時間が少し空いた時のために10分間でできる仕事をいくつか設定しておく
眠くなったらストレッチ体操を5分やる
108歳の誕生日まであと14,903日:絶対にこの日まで健康で命を閉じない!
海軍五省(3/5):気力に欠くるなかりしか
(物事を成し遂げようとする精神力は十分であったか)
英語版(3/5):The Five Reflections:Have you not lacked vigor?
経営コンサルタントは成長の触媒であり習慣の鏡である
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こちらもよかったらご覧ください。
ひとつ前の弊社ドメイン(事業領域)のリスクマネジメントです。
キャッシュフローマネジメントはリスクマネジメントの一つです。
初めての 海外の旅 その刺激 見聞広げる 香港のが旅
<服務の宣誓(自衛隊)>
私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法および法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもって専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえることを誓います。
<この先一週間のブログ予定>お好きな記事をお読みくださいね。⭕️今日書いた記事
12日(水):「暦注⭕️」「修行じじい⭕️」「伊勢物語」
13日(木):「暦注」「修行じじい」「IT-BCP&DX」
14日(金):「暦注」「修行じじい」「大東亜戦争」
15日(土):「暦注」「修行じじい」「IT-BCP&DX」
16日(日):「暦注」「修行じじい」「伊勢物語」
17日(月):「暦注」「修行じじい」「ドメイン」
11日(火):「暦注」「修行じじい」「伊勢物語」
1.朝日新聞の罪
表現の自由はもちろん大切です。でも「嘘の自由」はないはずです。「正しいことをあえて報道しない自由」もありません。その観点から言うと無垢の軍人将校を支那に引き渡し殺した「百人斬り事件という嘘(本田勝一:朝日新聞)(浅見一男:毎日新聞)」、「ありもしない『従軍』慰安婦問題の嘘(吉田清治:朝日新聞)」「密約問題(西山太吉:毎日新聞)」々の枚挙に暇がない両新聞のでっちあげ記事は、「嘘をつく自由」を勝手に行使しました。すくなくとも、本田勝一、浅見一男、吉田清治、西山太吉問題に蹴りをつけない限り両新聞にジャーナリストを語る資格はありません。浅見一男は、今、支那共産党に囲われ支那大陸でのうのうと生きているそうです(まだいきていれば)。
かつて、政府が住民基本台帳を整備しようとした時、すると、朝日新聞が「国民に総背番号制を強いるのか!!!」とネガティブキャンペーンを展開しました。もしあの時、住民基本台帳を整備していたら、国内における外国人犯罪問題は解決していたでしょう。今の、マイナンバーも同じです。情報が漏れるとか言って作らない人がいますが、じゃあ、そういう国民はSNSもインターネットもやめてアナログ世界で生きていきますか? 朝日という新聞は、立憲共産党とともに、もう日本の社会から消えた方がいい。
しつこくいいます。すべてのメディアのコンセプトは
真実を報道する、それが唯一民主主義を守る手段である
これを守っているメディアがどこにありますか? 皆無です。
スパイ防止法は待ったなしです。こんな情けない国を創っていたら日本の社会の中でまともに生きようとしている外国人が可哀想です。
2.支那紀行
昭和58年(1983年)2月に親友二人で支那大陸に卒業旅行に行きました。当時、日本で支那へのVISAを取ろうとしたら、ダメだと言われました。仕方がないので、格安チケットで香港に飛んで、それでもVISAが取れなかったら東南アジアでも行こうと言って。
香港に着いて二日目に支那の旅行社に行ったら「No problem(問題ない)。But you must three days(ただし、三日待て)」と言われたので、まずは、三日間の香港旅行を九龍を拠点にして楽しみました。
窓のすぐそこには大きな音々があり、部屋を消灯しても明るいホテルを香港で取りました。すると、旅行者から帰ってくると親友が下痢笑。「宝徳、すまんけど、腹が減ったからマクドナルドを買ってきてくれ」と。「マクドナルド?どこが下痢や」と言いながら買ってきましたからその日は買ってきてマックドを食いながらホテルの部屋に。途中、暇な私は、大通りを散歩。海外の旅に慣れている親友(以下、TJ)は、初めての海外旅行の私に「裏通りには一人で入るな」というアドバイスをくれました。
次の日にTJが、「どこ行きたいねん」というから「ビクトリアビーク」と言いました。映画「慕情」の舞台です。香港で一番高いところです。二人で映画慕情の歌を歌いました(誰もいなかったので)。「Love Is A Many Splendored Thing」。
夜は、ペニシュラホテルでお茶をして、九龍の裏道に食事をしに行きました。かなりの雰囲気でした。世界各国の裏道をしてているTJは、「宝徳どうや」と揶揄うように言いました。私は海外は知りませんが、北九州は知っています。当時の北九州は今から考えられないぐらい悪い街でした(まあレベルは違うが)。「何が起きてもよかたい」と思いながら、ある食堂に入りまた。
これまたすごい食堂で、支那語以外のメニューは一切ありません。私たちが入ったらみんなが振り向きます。英語は使えません。座って注文が来ました。TJが、隣の席を指さして、「あの、おっさんと同じもの二つ」と注文したら通じました。「なるほど、これが海外旅行で腹が減った時の秘訣か」と私は思いました。
さて、ビザがおりる日になりました。取りに行きました(つづく)
3.大躍進政策から文化大革命へ
(1)大躍進政策の失敗と毛沢東の権力後退
今だに支那で英雄視されている毛沢東の愚策により、人民が何千万人(一説には一億人)も亡くなった大躍進政策後、毛沢東は一回失脚します。
責任の追及: この壊滅的な結果を受け、共産党内部では毛沢東に対する批判が高ましました。
権力の一時的な後退: 批判をかわすため、毛沢東は国家主席の地位を譲り(1959年)、代わりに劉少奇(りゅうしょうき)が就任しました。また、党の実務を担う総書記には鄧小平(とうしょうへい)が留任しました。
実務派の台頭: 劉少奇と鄧小平は、大躍進政策で疲弊した経済を立て直すため、農村に自由市場を一部導入するなど、現実的・穏健な経済再建政策を推進しました。この二人は、現実的な政策運営を行うことから「実務派」と呼ばれ、党内で影響力を強めていきました。
(2)毛沢東の「復活」への焦燥と対立
毛沢東の「復活」への焦燥と対立
実務派による経済回復が進む一方で、毛沢東は自身が築いた革命路線やイデオロギー(思想)が軽視されていることに強い危機感を抱きました。
イデオロギーの対立: 毛沢東は、実務派の政策が資本主義への道を歩んでいる(「走資派」=資本主義の道を歩む者、と呼んだ)と非難し、自身の政治的立場と革命路線の正当性を取り戻そうと画策し始めます。
軍の掌握: 毛沢東は、林彪(りんぴょう)を国防部長に据え、軍隊を自身のイデオロギー教育で固めました。林彪は毛沢東の思想をまとめた『毛主席語録』(「紅い本」)を普及させ、毛沢東への個人崇拝を徹底的に推し進めました。
文化大革命の発動(1966年)
権力回復への焦燥と、実務派への不満が頂点に達した毛沢東は、1966年に「プロレタリア文化大革命」(略称:文化大革命、文革)を発動しました。
目的: 表面上は「資本主義の復活を防ぎ、社会主義思想を徹底させる」ことでしたが、真の目的は、党・政府内にいる劉少奇や鄧小平ら実務派を打倒し、失った権力を完全に奪還することでした。(つづく)
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