修行じじいのつれづれなるままに(皇紀二千六百八十五 令和七年(2025年)九月二十五日 木曜日)4

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しっかりと 正しい歴史を 学ぶこと それは国家を お護りすること


1.野口遵

 亡父が私の息子が小学生のときに息子に手紙をくれました。その内容を紹介します。少し長くなりますが、歴史の真実を知るために、ぜひ、お読み下さい。


◯◯君
学級委員になったんだってね。
おめでとう。

 今日は、もう10年も前、「日本が北朝鮮に残した遺産」について、おじいちゃんが書いたものを送ります。
 新聞記事は、今年のものですが、おじいちゃんは間違ったことを書いていないことがわかります。


 ちょっとむつかしいかもしれないので、お父さんやお母さんに聞きながら読んでください。
 朝鮮半島の地図も入れておきます。

 宝徳の家族は、北青(ほくせい)、洪原(こうげん)、咸興(かんこう)、西湖津(せいこしん)と地図ではちょっと南の元山(げんざん)に住みました。

北朝鮮に残した日本の遺産 北朝鮮はなぜ貧しくなったか(平成7年頃に書いたものです)

 あの悲惨な戦争を後の世の人たちに語り継がなければならないと言われます。その通りですが、敗戦とともに日本がしてきたことは間違った(多分に、 歴史を埋没させようとする)方向に導かれているのが現状です。(一億総懺悔)の言葉で日本のしてきたことは全部「悪」と処理されてきたのです。


 韓国は北朝鮮の核放棄の条件として、200万kwの電力を供給するという提案を、北朝鮮に言ったことを明らかにしました。同時に50万トン米支援なども約束しています。

 日本と同じ拉致被害国である韓国が、どうしてこうも、「ならず者国家」に支援するか不思議です。韓国ではいま500人が拉致され、一人も返されていません。朝鮮戦争で北朝鮮に連れて行かれた韓国人は8万人を超えるといわれます。


 韓国(以下、「南」)が北朝鮮(以下、「北」)に200万kwの電力を供給するという記事を見て、あの当時の事情を知る僕達は???と首を傾げます。


 60年前の(終戦直後)、朝鮮と満州の国境を流れる鴨緑江(おうりょくこう)の推計には、支流の赴戦江(湖 ふせんこう)、長津江(湖 ちょうしんこ う)、虚川江(きょせんこう)にダムがあり、鴨緑江には当時、東洋一といわれた「水豊(すいほう)ダム」がつくられていました。

 赴戦江(ふせんこう)、長津江(ちょうしんこう)、虚川江(きょせんこう)は、僕達が住んでいた咸興から、新興鉄道(私鉄)で行けるところだったので、名前を聞くと懐かしい思いがします。

 新興鉄道は、反対側の興南にも通じ、興南には、この電力を使った、日本窒素肥料(株)(現チッソ)が大規模な化学工場を建設し、硫安などの化学肥料をつくっていました。

 「北」の電力事業は、日本窒素肥料 野口 遵(したがう)さんが建設しました。さきほど、日本窒素は硫安など・・・と、お話しましたが、とても一 口ではいえないほどのコングロマリットでした。コングロマリットは、複合企業、巨大化した事業集団の文字を当てると実感が湧きます。


 内地に帰ってきて、新日鉄、日本鋼管など構内をバスやタクシーが走っている工場を見ていますが、日本窒素を見ている僕には小さな感じしかありません。なにしろ、日本窒素の端から端までは、新興鉄道で40分もかかりました。


 元来「北」は山岳地帯が多く、日本統治時代は、「南」は農業、「北」は鉱工業「と、これに要する電力と、おおまかな分け方がなされていました。

 僕達は朝鮮の発展に尽くした父祖たちの残したものを、「南」「北」はともかく、日本人だけでもいいから記憶にとどめておいてもらいたいものです。 事業もさることながら、日本窒素の社長だった野口さんは、昭和16年、全財産を化学研究所と、朝鮮の人の奨学金として寄付しています。

 「朝鮮の人」という表現。僕達は日本人でなく「内地人」と言い、朝鮮人、日本人の区別はしていませんでした。みんな日本人である。時、支那人も大勢「北」にいましたが、支那人から「朝鮮人」と呼ばれると、彼らはものすごく怒りました。「日本人」と呼べ。

 戦後、日本から膨大な工業資産(含む電力)を引き継いだ?「北」は、長い間、農業国の「南」より優位に立っていました。統計によると、昭和40年 (1955年)の一人当たりの国民所得は、「南」120ドルに対して、「北」は、190ドルでした。しかしその10年後、「南」580ドル、「北」450 ドルと逆転しています。

 逆転したのは、昭和40年の日韓国交正常化にともなう、日本からの経済協力(無償・有償=5億ドル)です。正常化に反対する人たちを鎮めるため戒厳令を敷いてまで、国交正常化を断行した、朴正熈(ぼくせいき)大統領と、韓国民の成果です。北朝鮮はどうしていたのでしょうか。僕たちの父祖が遺した、 あれほど豊富な鉱工業生産はどこにいってしまったのでしょうか。

 日本窒素は、熊本県水俣市を発祥の地として、日本の高分子化学の草分け的な存在であるばかりでなく、日本窒素・興南工場は、電解、硫安、アンモニ ア合成、硬化油、精錬(銅、金、鉛)、カーボン、アルミニウム電解、マグネシウム、水素(電気分解)、アルミナ、亜鉛、航空燃料(いそおくたん)、火薬等 の工場をもち、4万トンの岸壁を有していました。


 酸素と水素を分解する電解工場は、東京駅と同じ長さの棟が46棟もびっしり建ち並んでいたことからも、日本窒素・興南工場がいかに大きかったかが想像できます。

 バラの花などが瞬時に凍る実験でよく見る、液体窒素もここで生まれました。


 先ほど書いた、赴戦高原に建設した出力100万kwの発電設備は、現在の数兆円に相当します。

 この電力は、工場の使用電力量を補ってなお余りあり、社宅には、日本内地でも当時珍しかった電気コンロと、給湯設備が整っていました。この事業の集大成が、朝鮮と満州の国境を流れる鴨緑江の「水豊ダム」なのです。工事は西松組が担当しました。

 僕がいまなにを言おうとしているのか・・・。

 朝鮮北部に、日本が残したものは「窒素」やダムだけではありません。僕は旧制中学時代、先端的な工場などを見学しています。城津(じょうしん)にあった高周波精錬所など、当時としては世界のトップをいく技術でした。

 その日本人が遺した数兆円とも言われる遺産を、北朝鮮はどこにどうしてしまったのか。しばらくの間は、ソ連や中国の援助と、在日本朝鮮人総連合 (朝鮮総連)からの不正送金などで持ちこたえてきたのでしょうが、国の経済は他国からお金をもらうだけでは成り立ちません。そこには生産的な何かが存在し ないとダメです。


 日本は、朝鮮、台湾、樺太などを植民地支配したといいますが、一般的な言葉のもつ意味は、植民地支配は「搾取」に解釈されるのが普通です。だが、例を挙 げると日本は朝鮮を「植民地」とみなかったことは、今までお話した意欲的な産業振興でわかります。実に国家予算の20%を教育を含む、朝鮮の近代化に注入 したと聞きます。

 それがなぜ、どうして、金正日政権の経済は破綻し、人民は上に苦しみ、あの豊富だった電力だけではなく、肥料までも韓国に頼らざるを得ない状態になってしまったのでしょうか?

 日本が残した、鴨緑江の「水豊だむ」(100万kw)。赴戦湖、長津湖、虚川江ダム(100万kw)はどうなったのか。コングロマリット―日本窒素肥料㈱興南工場は稼動していないのか。稼動していないとしたらその理由は何か。僕は知りたいことがたくさんあります。

 朝鮮北部に日本窒素肥料㈱興南工場を完成させた野口遵(したがう)のコングロマリットは、戦後、財閥解体、集中排除法等の適用を受け解体されました。


 ゼロから出発した日本窒素肥料は、チッソ、旭化成工業、積水化学、ニッチツおよび、その関連会社として、それぞれ独立して発展を遂げてきています。


 余談になりますが、化学調味料の「旭味」(いまもあるのかな)は、日本窒素肥料㈱延岡工場(今の旭化成工業㈱延岡工場)でつくられていました。つまり、日本窒素肥料は、化学調味料も生産していたのです。

 チッソ㈱は、水俣病の補償で今も苦しい経営が続いていますが、戦後水俣工場でシリコン結晶の精製に成功するなど、高分子化学のさきがけとして高い 技術を提供しています。人造ダイヤモンドは、あの当時から日本窒素・興南工場でつくっていて、正社員の胸に「バッチ」が光っていました。

 なにもない、戦後、ゼロから出発した「日本窒素肥料」が、それぞれの会社で実績を挙げているのに、設備をまるまる残して去った日本の遺産―日本窒素・興南工場をどのような状態にしてしまったのか。いずれ、日本の遺産を食い潰した経緯を北朝鮮に聞かなければなりません。おわり


2.皇統の危機❶
  明治大帝の皇后は、昭憲皇太后です。素晴らしい方です。でも、残念ながら二人の間には子供ができませんでした。なので、側室の愛子(やなぎはら なるこ)と子をもうけました。
          弊社蔵書より
 前にも書きましたが、国際機関とかが「日本の皇室は男尊女卑」だ、「女性差別だ」とほざいていますが、そんな事実はまったくありません。また、今の日本の女性も「側室なんて」と眉を顰めるかもしれません。

 誤解を解きます。日本の皇室は徹底した「女尊男卑」です。「男子差別」です。女性は誰でも皇室の一員になれますが、男性は決してなることはできないのです。理由はわかりませんが、それが何千年と我國を人間社会の奇跡の国としてつないできた皇室の知恵なのです。「男は入れてはいけない」と。お二人にお生まれになられたのが大正天皇です大正天皇のお后が貞明皇后です。ご存じですか?。

  長くなるのでこれはシリーズで書きますね。

 ただ、全ての生き物が自分のDNAをつなためでだけに生きていることを考えると、人間社会というエゴの中で、それを実現することがいかに難しいか。側室を奨励しているのではありません。昭和天皇は香淳皇后(昭和天皇が皇太子であられたときは良子内皇太子妃)をとても愛していたので、側近がいくら進めても「弟が二人もいるから大丈夫」と言って側室をとりませんでした。

 そんなにすんなり、世界で唯一神話の世界から歴史が連続した人間社会の奇跡の国 我國日本ができるわけがありません。国体しらすを引き継げる訳がありません。ドロドロの争いの中を潜り抜けて各御代の陛下は、それを実現したのだということはご理解ください。この素敵な本を潰したくなければ。

3.上皇后陛下
  ちなみに一つだけ申し上げておきます。上皇后という名称は日本語にはありません。日本を潰したくて仕方がない、ブラックメディアに入り込んでいる他国のスパイや他国人が勝手つけた名前です。正式名称は皇太后陛下です。お間違いがないように。

 私がこのブログで他国のスパイやブラックメディやいろいろなとことに入り込んでいる他国人やスパイのことを書くたびに「そんなことあるわけないじゃない」と考えている人がたくさんいます。

 日本が憎くて潰れて欲しい国はいくらでもあります。「日本は大丈夫よね」と感じるのは、交通事故を見ても私は大丈夫よね、と、スマホで写真と撮っている人と同じです。こういうのを

正常性バイアス

と心理学では言います。

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このページは、宝徳 健が2025年9月25日 03:35に書いたブログ記事です。

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