修行じじいのつれづれなるままに(皇紀二千六百八十五 令和七年(2025年)十月五日 日曜日)5

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お天道様、今日も苦しみを楽しみに変えながら十三ヶ条を達成します

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まもるのは 国民の声 それひとつ この宝物 なくすべからず

1.豊受大神一昨日のつづきです。まずは、豊受大神のまともな話です。伊勢神宮のホームページ。
  勢市の中心部、高倉山の麓に鎮座する豊受大神宮は、衣食住、広く産業の守護神である豊受大御神をお祀りし、古くから内宮に対して外宮と並び称されています。今から約1500年前、天照大御神のお食事を司る御饌都神として丹波国から現在の地にお迎えされました。内宮の御鎮座から約500年後のことです。以来、外宮御垣内の東北に位置する御饌殿では朝と夕の二度、天照大御神を始め相殿神及び別宮の神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭が続けられています。

 

豊受大神宮のご鎮座は『止由気宮儀式帳』や『豊受皇太神御鎮座本奇』によると、雄略天皇の御代に、天照大御神が天皇の夢に現れてお告げをされたことによります。その内容は、「一所のみ坐せば甚苦し」ということと、「大御饌も安く聞食さず坐すが故に、丹波国の比治の真名井坐す我が御饌都神、等由気大神を、我許もが」と教え諭されたことでした。天皇は夢から目覚められて、等由気大神を丹波国からお呼びになり、度会の山田原に立派な宮殿を建て、祭祀を始められました。これが「御饌殿の創設」、「日別朝夕大御饌祭の創祀」を始めとする御鎮座の由来です。

天照大御神の御神慮によって豊受大神宮がお鎮まりになったことには、どんな意味があったのでしょうか。皇大御神は、豊受大御神の御神慮を仰ぐことなしに、食事に代表される生活全般の正しい豊かな営みが不可能であることを、みずからお教えくださったものと考えます。この御代は大陸との交通がますます盛んとなり、産業の開発も著しく、国富はいよいよ充実した時代であったことを考えると、その深い神慮のほどがうかがわれます。

(宝徳所管)

なるほどね〜。元伊勢神宮の成り立ちはわかりました。天照大神が豊受大神をなぜおそばに置いていらっしゃるかも、では、次回は、また別の側面からも豊受大神のことを見ていきましょう。

2.当たり前の国のはじまり
 私たちが幼いこ頃は、我が国はまだ貧しかった。親は子供たちの望みを十分叶えてあげられず、忸怩たる思いを味わいました。ある引越しの時、父方の祖母の実家に移動の途中挨拶も兼ねて寄りました。福井県三国市です。三国のおばちゃん・おじちゃん、または左近のおばちゃん・おじちゃんと呼んでいました。あまり会ったことはありませんが。そう祖母の旧姓は左近ツイ。

 立派な家と車がありました。父は私に「こんな家に住んで車を買いたいなあ、健」と言いました。確か小学校三年生の時だと思います。厳しいけど愛情たっぷりの父・優しいけど道を外れた時に怖い婦道の母・喧嘩ばかりしていたけど大好きな姉・後から生まれてくる妹・戦争未亡人の祖母・・・。子供心にまだ裕福とか貧しいとかはわかりませんでしたが、この家族が一緒にいるのがあたりまえで幸せでした。私たちは小さな市営住宅の長屋に住んでいました。はっきり言って貧しかった。ある時、道端で50円拾って家に帰って母に渡したらとても喜ぶぐらい😝。寝ている母の姿を見たことがありませんでした。子供たちの切るものはすべて父のお下がりを母が仕立てたものでした。

 でも、子供の頃の思い出は、いつもゲラゲラみんなで笑っていたし、いつも安心だったし、家が大好きでした。そのうち、池田勇人総理大臣の所得倍増計画がはじまり、民間消費支出はどんどん伸びてきました。母は発病しましたが、辛いとか痛いとか母の言葉は聞いたことがなく、最高の笑顔で父の給料が上がるのを喜びました。学校にはまだ敗戦前の教育を受けた素晴らしい先生がたくさんいました。家の鍵は夜も空いていました。安心を創る安全がありました。

 こんな生活でいいのです。私たちがしたいのは。そんな生活を取り戻してくれる宝物がやってきました。この宝物を共産主義左翼リベラル・利権団体・支那共産党・財務省・ブラック&オールドメディア・不勉強な国民から、私たちが守らなければなりません。おそらく最後と言っても良いチャンスでしょう。

 私が学生時代に、英国は「英国病」と呼ばれ国家自体が潰れそうになっていました。労働党政権が企業をほとんど国有化し、社会主義政策が跳梁跋扈し、国民は甘えた政策に慣らされ生産性は大幅に落ちていました。

 その時、英国民には、マーガレット・サッチャーを登場させる力がありました。そして、彼女の政策遂行を守る力がありました。英国は蘇りました。

 さあ、今度は私たち主権者日本国民の番です。悪夢の民主党政権の時に私はブログに書きました。

 国民よ、安倍晋三に追いつけと。同じことを言います。主権者でありつづけたいなら、

国民よ高市早苗に追いつけ

と。そして、この宝物のようなチャンスをものにするために言います。

国民よ高市早苗を護れ
共産主義左翼リベラルの耳に心地よいだけの言葉に騙されるな

 ああ、自分の身内しか考えていない小泉進次郎にならなくてよかった。岸田が半壊させ、石破が全壊させた日本が今度は、沈んで見えなくなってしまうとことでした。

https://www.tiktok.com/@nomorepain999/video/7542001887613078792
大和撫子魂 小坂りゆ

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このページは、宝徳 健が2025年10月 5日 05:01に書いたブログ記事です。

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