修業じじいのつれづれなるままに(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)十一月朔日 土曜日)2

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平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が現在10,729通目です。

           お天道様、今日も苦しみを楽しみに変えながら十三ヶ条を達成します

第九条)共感力の原則:私の触媒としての存在がみなさんの共感力となります。

日中に精神が弛緩したらもう一度「般若心経」「教育勅語」「大祓詞」を読みます

仕事時間が少し空いた時のために10分間でできる仕事をいくつか設定しておく

眠くなったらストレッチ体操を5分やる

108歳の誕生日まであと14,914日:絶対にこの日まで健康で命を閉じない! 

海軍五省(1/5):至誠に悖るなかりしか

誠実さや真心、人の道に背くことはなかったか

The Five Reflections:Was there anything contrary to sincerity?


経営コンサルタントは成長の触媒であり習慣の鏡である

 https://batonz.jp/partner_adviser/keieisenryakushitsu/

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ひとつ前の弊社ドメイン(事業領域)のリスクマネジメントです。

キャッシュフローマネジメントはリスクマネジメントの一つです

 

祖父が今 存命ならば 酒を飲み もっといろいろ 話したかったな


<この先一週間のブログ予定>お好きな記事をお読みくださいね。

10月1日(土):「暦注」⭕️「伊勢物語」「修行じじい」◎「IT-BCPDX

2日(日):「暦注」「修行じじい」「IT-BCPDX」「楓蔦黄」

3日(月):「暦注」「伊勢物語」「修行じじい」「IT-BCPDX」、「ドメイン」

4日(火):「暦注」「修行じじいIT-BCPDX

5日(水):「暦注」「伊勢物語」「修行じじい」「IT-BC&DX」

6日(木):「暦注」「修行じじいIT-BCPDX

7日(金):「暦注」「修行じじい「大東亜戦争」「IT-BCPDX


1.祖父の命日
 今日は、母型の祖父の命日です。秋武璋二、昭和四十四年(1969年)十一月一日没。享年72歳。生きていれば、126歳です。別々に住んでいたのですが、大阪にいた我が家にもよくきてくれていたし、思い出はたくさんあります。来る時はなからずお土産を孫たちに買ってくれていました。片目が義眼なので、寝ている時はけっこう、気持ちが悪かったけど、大好きなおじいちゃんでした。母の実家に帰った時に私がペラペラよく喋るので、「男がそんなにペラペラするな」とゲンコツをもらいました。すると母が「孫を殴るとは何事ね!」とじいちゃんにくってかかっていました笑。夕飯の時に行儀よく食べられた時は近くの本屋に連れて行ってくれて本を買ってくれました。
 
 祖父は、学校の成績も良かったようです。家が、お医者さんだったので、医師になるはずだったのが、兄に譲らなければダメだと思い、自分だけ東京に出て苦学生をしました。その時、一緒の下宿にいたのが、出光興産株式会社創業者 出光佐三店主の末弟、出光計助さんです。祖父は早稲田に計助さんは東京高商に進みました。よく「俺は計助の代わりに東京高商に試験を受けに行ったんだ」と言っていましたが、真偽やいかに笑。

 そのつてで、母は出光興産に入社し、日章丸事件に関わることになります。

 よくお酒を飲む人で、母の入社を計助さんに頼みに行く時も「秋武、すまんが少し待っていてくれ」と仕事で専務(当時)部屋を一度退出しました。1時間ぐらいだったのだそうです。その間に、計助専務の部屋のダッシュボードにあるウイスキーを一本飲み干したそうです。計助専務は部屋に帰ってきてか等爆笑しながら「お前、相変わらずだなあ」と言ったそうです。一緒にいた母は、恥ずかしくて顔から火が出そうになったと、生前よく話をしていました。

 母の実家にいる時、祖父の枕元には日本酒が入った一斗樽が置いてあります。祖父は目覚めたらその一斗樽の口を開けて升に一合ついで、飲み干し、朝飯を待っているところに(当時は家長が起きてこないとご飯が食べられなかった)、「おはよう」と起きてきて、ご飯にまた酒をかけて食べていました。「健、これが鮭茶漬けだ」とかいいながら。

 母の実家でたまに祖父と二人きりになることがよくありました。すると祖父が「健、酒を買ってきてくれ」と言いました。昔の酒は量り売りです。一升瓶を持っていき、いくつかつまみも買って持って帰ると、決まってお釣りをくれるのです。まだ十歳ぐらいだった私は嬉しくて仕方がありません。「おばあちゃんとお母さんにはいうなよ」と言われていたので、少し悪の仲間入りをしたように思えてワクワクしました。

 母方は北朝鮮からの引揚者です。引き揚げて来る時、朝鮮人に騙されて、船で日本に返してやると言われて金を騙し取られました。その時、朝鮮人は祖父に拳銃を突きつけられたそうです。泣く母たちに祖父は「泣くな!!!!」と言ったそうです。母は「お父さんはなんて強いんだろう」と思ったそうです。

 祖父と祖母の子供は、長女「堯子(多賀子)」、長男「舜一(しゅんいち)」、次女「汎子(ひろこ):母」、三女「雅子」、四女「洋子」です。堯子の堯と舜一の舜は、支那の伝説の理想の皇帝の名前です。堯子伯母さんは、引き揚げてくる途中、38度線を越えられず亡くなったそうです。優しい優しい人だったそうです。祖母は敗戦の日になるといつも仏壇に向かって涙を流していました。

 じいちゃん、天国でも酒呑んでるか? 相手は帝釈天か?呑みすぎて、ばあちゃんと母さんに怒られるなよ笑。また、来年の命日にね。毎朝、仏壇には礼拝しているからね。元気でね。

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このページは、宝徳 健が2025年11月 1日 13:02に書いたブログ記事です。

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