修行じじいのつれづれなるままに(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)十一月十九日 水曜日)2

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平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が現在10,783通目です。

    お天道様、今日もまた苦しみながら十三ヶ条を達成します

第十二条/第十三条)評価の原則:みなさんが一つの仕事を成就した時に我が事のように慶びそして嬉しさをみなさんに伝えます。

日中に精神が弛緩したらもう一度「般若心経」「教育勅語」「大祓詞」を読みます

仕事時間が少し空いた時のために10分間でできる仕事をいくつか設定しておく

眠くなったらストレッチ体操を5分やる

108歳の誕生日まであと14,896日:絶対にこの日まで健康で命を閉じない! 


海軍五省(4/5):不精に亘るなかりしか

(怠けたり面倒くさがったりしたものはなかったか)

英語版(4/5):The Five Reflections:Hast thou not been wanting in effort?

経営コンサルタントは成長の触媒であり習慣の鏡である

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こちらもよかったらご覧ください。

ひとつ前の弊社ドメイン(事業領域)のリスクマネジメントです。

キャッシュフローマネジメントはリスクマネジメントの一つです。


 支那紀行 暗い臭いと 汚いは 国家あらずの 共産社会


<服務の宣誓(自衛隊)>

 私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法および法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもって専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえることを誓います。

<この先一週間のブログ予定>お好きな記事をお読みくださいね。⭕️今日書いた記事

19日(木):「暦注⭕️」「修行じじい⭕️IT-BCPDX

20日(水):「暦注」「修行じじい」「伊勢物語」
21日(金):「暦注」「修行じじい「大東亜戦争」
22日(土):「暦注」「修行じじいIT-BCPDX
23日(日):「暦注」「修行じじい「伊勢物語」
24日(月):「暦注」「修行じじい「ドメイン」
25日(火):「暦注」「修行じじい「伊勢物語」

1.本位制の失敗❻
  学生時代に、城山三郎の「男子の本懐」を読みました。濱口雄幸(おさぢ)首相と井上準之助日銀総裁が金解禁に向かう話です、金解禁つまり金本位制を取るという愚策です。城山三郎の筆が強いので、私はすっかり騙されてしまいました。城山三郎は、金本位制のことなど、ほとんど書かず、濱口首相と井上総裁のことを賛美しているだけです。軍を悪者にしながら。この手法は司馬遼太郎と山崎豊子と同じです。誰かを特に軍を悪者にして小説を書き進めていく。軍が大嫌いなNHK(日本破壊協会)は、これを絶賛してドラマにまでしてしまいました。

 繰り返します。金本位制は、今の財務省のプライマリーバランスと一緒で決して経済成長に資することありません。経済を成長しない枠に閉じ込めてしまうからです。でも、なぜか、多くの政治家などが、この金本位制が好きなのです。敗戦前の国家経済運用も、自然と不況になったのではなく、あれは人災です。これだけ歴史の中で、失敗という金解禁のレッテルをはられながら。

 それがアメリカ大統領ニクソンの金本位制の停止です。次回はこれを話しましょう。
2.支那紀行と共産主義❺
  前回、共産主義には生産という概念がないと申しました。これも繰り返しますが、共産主義者にあるのは、

労働価値説

だけです。プロレタリアート革命だからです。マルクスの資本論に書いてあります。

 日本の誰かに似てません? 岸田と石破です。彼らは、賃金を先行して上昇させれば景気が良くなると思っています。賃金は企業が決めることで政治が決めることではありません。

  共産主義経済の仕組みは、経済が疲弊するとプロレタリアート革命を起こします。その時の手段が暴力革命です。金持ちを殺すか、他国を奪うのです。それが支那共産党がやっている新疆ウィグル自治区とかラサです。自分たちは生産せずに、資産が入ります。共産主義国のバランスシートにいきなり魔法のように資産と自己資本にポンと計上されます。

 支那共産党の一帯一路戦略もそうです。お金を支援する振りをしながら、それ以上の資産を最終的に奪います。その国を支配下に置きながら。自分では作らないので、生産という概念がないのです。あるのは、「暴力」「略奪」「殺人」の概念です。

 それが嫌で菅原道真は千年以上前に「遣唐使を」やめました(寛平六年(894年))。1,131年が経っても支那は何も変わっていません。

  当時の広州はあまり見るところがありませんでした。何しろ暗いのです。すぐに停電になるのです(軍ん優先で電気を供給しているから)。停電にならなくても夜は真っ暗(電灯がない)。それにみんな人民服を着ているので、男女の区別もつきません。屋台で食べた朝食は美味しかったなあ。おそらく、今支那で何かを食べるより、美味しいと思います。当時も食物の流通はほどんどありませんでしたが、地元で採れた野菜や肉で調理されていました。屋台で食べるお粥は最高でした。その後2回支那には行きましたが、料理には、大量の化学調味料が入っていて舌が痺れて食べられませんでした。台湾にも行きましたが蒋介石が良い料理人を全て連れてきたので美味しくいただきました。

 卑怯者孫文の像しかない広州を離れ私たちは飛行機で長沙(チャンシャー)に向かいました。洞庭湖の辺りで毛沢東の故郷です。この飛行機がすごかった。TV番組で、おもうまい店というのがありますが、この飛行機は「おもこわい」飛行機でした。つづく

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このページは、宝徳 健が2025年11月19日 00:30に書いたブログ記事です。

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