修行じじいのつれづれなるままに(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)師走廿日 土曜日)2

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  百八歳の誕生日まであと、14,870日です。この日に命を閉じるまで健康でいます。

                          支那といふ 摩訶も不思議な 大陸は 歴史もありて アカもそこここ

1.日銀よお前もか
 よくブラック&オールドメディアが、「日銀の独立性」を言います。日銀に百条委員会見たいな独立性はありません。「日銀の独立性」ではなく、日銀が有しているのは「金融政策の独立」なのです。でも悲しいかないつだったけなあ、アホな国会が日銀法に、「日銀の独立」を書いてしまったのです。高市総理は、もし、総理になる時に過半数を握っていたらまず、やった使徒ごとは「日銀法の改正」をやったでしょう。「金融政策飲みの独立性」にして。高市改革のまずの目標は、人間のからだでいうところの「経済」です。ここで金利を好き勝手にいじだれたらたまりません。日銀の植田総裁も、お前も反高市か!と思っていしまいます。今は、確かにインフレーションですが、それは。需給ギャップから起こっているインフレとは違い、コストプッシュインフレーションの要素が多分に多いのです。消費者物価指数も企業物価指数も下がり始めてます(高橋洋一氏談)。この時期に金利を上げる、つまり、円の価値を上げると消費者はまた価値の高い円を使わなくなります。明らかに高市政策の真逆です。

 我が国の高度経済成長の時は、池田勇人総理は、金利上げ症候群の日銀引退して断固、利上げをさせませんでした。この時はまだ、日銀は「金融政策の独立」しかもっていませんでした。「日銀の独立」としてしまうと、総理大臣に日銀総裁の首が切れなくなります。これを最大限に利用したのが、マクロ経済の知識が皆無の白川です。彼が「30年の失われた日本の演出者」であり、「日本のようになるな」と他国にいわしめた張本人です。


2.減税すると物価があがると「だけ」いう愚かなエコノミスト
 数日前に書きましたよね、BMIのことを。マクドナルドの価格を世界で調べると、その国の物価水準がわかると。つまり、高度経済成長期の日本は、世界一物価が高い国でした。それの時も経済音痴のマスコミは、物価が高いと騒いでいましたが。この前もある「ミクロ」エコノミストが、減税すると物価が上がると宣っていました。景気が良くなれば需要が増えますので、当然、需要が供給を上回れば物価は上がります。これは自然の摂理です😝。でも、景気拡大というのはそれ以上に所得が増えることを言います。物価が上がってもそれを書いと思わないのが経済成長です。

 過去、日本人は、男性でも女性でも少し働いたら年収500万円はゆうに稼げました。今は旦那が1,000万円稼いでも以前ほど効果がない(国民負担率がそれ以上に高くなっているため)のです。

 経済成長なんでもう日本はできないと思っている輩がたくさんいます。こういうのを「負け犬」と言います。英語では under dogです。つまり犬以下です。
3.本当に強い人間は立ち上がる理由を手ばさなかった人
 いつの慶早戦野球だろう? かなり感動。観てみてね。

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4.支那紀行:西安事件の爪痕
 西安にいるとき日本人商社マンに声をかけられ自宅で夕食をご馳走になりました。当時、日本人支那には、とくに、西安のような奥地にはほとんどいません。空港でも見かけません。ここで私たち二人は、この商社の方にいろいろな情報をいただきます。どれほど、この後の支那の旅が助かったかわかりません。でも、不思議なのは、確かに西安は回った中でも歴史の宝庫でもあるし、素朴ですが料理も美味しかった思い出があります。おそらく情報収集での不妊であったと思います。「中国民航に乗る時には気をつけなさい。旅行ガイドには世界一安全だと書いてあるが、そんなの嘘だ。しょっちゅう落ちている(もうこの時には乗っていて怖い思いをしていた)」「こういう食べ物には気をつけなさい」「トイレには気をつけなさい」「ここまで個人旅行で来たのなら、外貨兌換券ではなく、人民元がずいぶん溜まったろう。明日ホテルでそれを出してごらん。面白い経験ができるよ」などなど。そして、極め付けは「君たちが、学生で個人旅行をしている人はほとんどいないんだ。よく、ここまで来られたね。明日ぐらい、共産党員らしき人間が君たちに接触してくると思う。ずっとつけていたと思うから。彼らは見知らぬ人間の調査をして上に報告しなけ ればならないんだ」。さすが共産主義です。そして、最後に「今、中国の経済が破綻したら、日本に大量の難民がなだれ込む。マナーも文化も驚くほど民度が低いこんな連中が1%でも日本に難民としてきたら大変なことになる。だから私たちは情報を常に持っていなければならないのだ」と教えていただいて別れました。なるほど、今の、不要な支那人にインバウンドをもうこの方は40年前に予告していたのですね。

 さあ、西安の最終日。唐の玄宗皇帝と楊貴妃のロマンの場所、華清池に来ました。ここは西安事件が起こったところです。張学良の蒋介石に対する裏切りがなかったら支那共産党はここまで育っていなかったと思います。


 西安事件(せいあんじけん)は、昭和二十一年(193612月)に中国の西安で起きた、現代中国の歴史を大きく変えた歴史的事件です。

一言でいうと、「味方の将軍(張学良)が、リーダー(蒋介石)を拉致して『仲間割れ(内戦)をやめて、日本と戦おう!』と迫った事件」です。

 分かりやすくポイントを整理して解説しますね。

1. 事件の背景:日本への危機感と「内輪もめ」

当時の中国は、二つの大きな問題を抱えていました。

外敵: 日本軍が満州(中国東北部)を占領し、さらに侵攻しようとしていた。

内乱: 蒋介石率いる「国民党」と、毛沢東率いる「共産党」が激しい内戦を繰り広げていた。


 蒋介石は「安内攘外(あんないじょうがい)」という方針を掲げていました。「先に国内の共産党を片付けてから、外敵(日本)に立ち向かう」という考えです。 これに対し、日本に故郷(満州)を奪われていた将軍 張学良(ちょうがくりょう)らは、「今は内輪もめをしている場合ではない、共産党と協力して日本に立ち向かうべきだ」と不満を募らせていました。


2. 事件の発生:蒋介石の監禁

 同年1212日、共産党への攻撃を督促するために西安を訪れた蒋介石を、張学良と楊虎城が突如として拘束(監禁)しました。


彼らは蒋介石に以下のことを要求しました。

  • 内戦を即座に中止すること
  • 共産党と協力して日本に抵抗すること(抗日民族統一戦線の結成)

3. 意外な結末:周恩来の仲介

 当初、共産党側には「宿敵の蒋介石を処刑してしまえ」という声もありました。しかし、ソ連(スターリン)が「蒋介石を殺せば中国が混乱し、日本を利するだけだ」と反対(当時支那共産党はソ連のモスクワ・コミンテルンの下部組織だった)。


 そこで共産党のリーダーの一人である周恩来が西安に乗り込み、蒋介石・張学良らと話し合いました。その結果、蒋介石は「内戦停止」を口頭で約束して釈放されました。


4. 事件が与えた大きな影響

この事件によって、中国の歴史は劇的に動きました。

  • 第二次国共合作: それまで殺し合っていた国民党と共産党が手を組み、日本と戦う体制(抗日民族統一戦線)が整いました。
  • 日中戦争への流れ: 中国が団結したことは、翌1937年に始まる日中戦争の全面化に大きな影響を与えました。
  • 共産党の復活: 当時、国民党に追い詰められて絶滅寸前だった共産党は、この停戦によって息を吹き返し、後の国共内戦での勝利(中華人民共和国の建国)へとつながる足掛かりを得ました。

その後の登場人物たち

  • 蒋介石: 指導者としてのメンツは潰されましたが、抗日の旗手として国民の支持を集めることになります。
  • 張学良: 蒋介石を釈放した後、自ら責任を取る形で南京へ同行しましたが、そのまま拘束されました。その後、数十年にわたって軟禁生活を送ることになります。
 
 実際にこの歴史的場所に言った私たちは、張学良が蒋介石に向かって発砲した時につけられた窓ガラスの穴を見ました。

 さあ、これから世界の不幸が始まります。次回は、西安空港から北京に向かった時の話をします。

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このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2025年12月20日 14:45に書いたブログ記事です。

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