平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が、現在10,232通目です(後で数えなくていいように)。
このインタビュー記事を読んでくださると、私の今の仕事がよくわかります。
今日は亡父 寳德 佳男生誕の日です。昭和二年(1927年)七月一日です。明治の男たちに憧れた父は「俺は明治六十年生まれだ」とよく言っていました。私や姉が小さな頃は、怖くて怖くて口も聞けない父でした。仕事第一の父は台風が来ても会社が心配だと言って家にいなくなってしまうんです笑。残された祖母と母と私たちで雨戸を閉めて雨戸に釘打ちをしていました。
朝鮮が日本だった頃、北朝鮮の咸興で生まれました。体が弱かったと聞いていますが、朝鮮人100人対日本人10人で喧嘩なんかもしています。大東亜戦争では行きたかった旅順工科大学への道を諦め(成績は常に一番だったそうです)予科練に志願しました。帝国海軍甲種飛行兵第十四期です。もう兵がかなり死んでいて十八歳で専任伍長になり260人の兵を率いていました。
父十八歳敗戦の年です。
兵が規則違反をすると父の責任になりけつバットです。でも、それを「俺の管理能力不足だ」と絶対に人の責任にしませんでした。小さい時によく聞かされました。「リーダーというのはな全ての責任を取るんだ」と。「リーダーになるには生まれつきの素養が必要なんだ。誰でもなれるわけではない」とも。さすが、キャプテンラストの海軍です。(The Captain is the lastman to leave the ship.艦長は最後まで船を去るな)。帝国海軍は士官や兵は抜群に強かった。世界最強でした。将軍たち、特に山本五十六が無能でした。
私に息子ができたときは、それはそれは喜んでわたにくれた手紙には「俺は戦争で死ぬと思ってた。それが生きながらえて、健が生まれそして真大(まさひろ)に繋がった。夢のようだ」と書いてありました。
出光佐三佐三店主の大ファンでした。
享年は九十四歳です。令和三年三月十日没。帝国海軍なのに、陸軍記念日に亡くなっています。
「死ぬのは怖いだろうなあ(父はあと1週間戦争が長引いていたら特攻に行っていた)とはいつも思っていたが、俺が死ねば愛する国家と家族を守ることができるんだという気持ちで日の丸を腹に巻いて死ぬ覚悟だっら。テレビとかでいろいろ戦争のことを悪くいう人間がいるが、当時にはそれを凌駕する精神性があったことをわすれるな」とも。
日の丸の赤いところには字を書いていません。日本人の常識です。